五十嵐 引退
卒業2
昨年の全日本選手権をもって五十嵐遥菜は競技生活を終え引退しました。
長きに渡り沢山の方々に支えられ応援して頂いた事に改めて感謝申し上げます。
*エピソード*
彼女は小学2年の時に新体操を始めたが
間もなくして、その時一般クラスを指導していた先生から私へ一本の電話が来た。
「すぐに育成クラスにあげてほしい子が居ます!!!」
私はあまり期待せずに本人がやる気あるならば。。。と承諾した。
その電話の最後に一言、付け足すように先生は言いました。。
「・・・なんだか 勝ち気がすごいのー。。^^; 」
この些細な一言がどれほど深い意味だったか知るよしも無く、ここから14年、私の彼女との壮絶な競技人生が始まるとは、誰も想像もしなかった。
彼女は小さい時から夢や目標は、まるで晴れ渡る青空のように果てしなく広く高く。
しかし彼女の気分や努力は「天気」のように晴れたり曇ったり….であった。
どんな時も真面目で、素直で、どんな小さな事にも全力で取り組む、努力に努力に努力を重ねる選手。。と言うよりは、その時々の勢いで突っ走る選手。
そんな選手だったので、一筋縄ではいかなかった。笑 (*´ー`*)
小学生の時には練習中に、彼女に質問を投げかけた。質問の答えはYESかNOしか無いような質問だったが、彼女は泣いて黙っていた。30分以上しても黙っていた彼女に、もう一度「どっちなの?」と聞くと泣きながらこう答えた
「質問は、、、なんでしたか、、、。」
・・・・ 彼女はなんでわざわざ30分泣いていたんだろうか。。。そのあと、私に背中を向けて座って肩を揺らしながら泣いてるように見えた。呆れた私がその背中に向かって私は渾々と叱っていたら、振り返った彼女は泣いているのではなく、
お茶をゴクゴクと飲んでいた。。。(-_-)
と、まぁこんなやり取りは盛り沢山あったが、とにかく指導していた私に喰らいつくぐらいに挑んできた。14年間を振り返ればお互いを刺激し合う事で、指導者として、選手として成長していったように思う。
小学3年には選手クラスに上がり、4年生ではチャイルド選手権で入賞。そこからメキメキと力をつけ始めた。
目立つのが好きだった本人の気質を生かして、とにかく印象に残る作品を彼女に振り付けてきた。
小中学生には難しいのではないか、、、
という曲や踊りも本人は堂々と色鮮やかに踊りこなしてくれたのは、振り付け側からすれば本当に幸せな事であった。
同じ年代には、かなり多くの選手達が同じように頑張っていて試合を共に戦う仲間としては、たくさんの刺激があり、憧れや負けるもんか!と思う気持ちが彼女にアドレナリンを与えてくれてジュニア時代は躍進していった。
特に中学2年は劇的な年であった。初出場で臨んだユース選手権では、その年の本人の目標の全日本ジュニア出場よりも一足早く全日本選手権出場の権利を得た。
しかしながらジュニア予選の方が波瀾万丈で、大事な関東ジュニア大会では1種目めのフープで大場外2回。会場から悲鳴が起きるほどの惨事で47位と大きく出遅れた。フロアから戻ってきた本人に一言「必ず巻き返すよ」だけ伝え、次の種目の準備に行かせた。残り3種目で追い上げ7位で初の全日本ジュニア出場を手にした。
この年の全日本ジュニアはアジアジュニア代表予選を兼ねていた大事な試合であった。その事を最後まで本人には伝えずに私はバレないように密かに通過を祈っていた。激戦の全日本ジュニアであったが試合が終わると、彼女は通過4枠の中に食い込んでいた事に感動した。そのあと数ヶ月、日本代表として過ごす様々な合宿やコントロールシリーズは、毎回とても気が重かった私とは裏腹に(笑)、本人は意気揚々と参加していて新体操人生で1番充実していたと同時に一番新体操に「没頭」していた貴重な時間であった。
日本代表として出場したアジアジュニア選手権でも本人らしく堂々と踊り切り国別対抗3位に貢献し、種目別フープも4位と十分すぎる頑張りを見せた。
ジュニア期が終わり高校生のシニア期になると、たくさんの壁にぶち当たる事が多かった。気分が乗ってない時期に選抜大会で優勝し、逆に優勝を狙ったインターハイでは惨敗し、なかなか思う通りには行かないスポーツの難しさであった。
高校3年間は国体の団体にも参加した。身体の故障も1箇所また1箇所と増える事に辛い事も増え、辞めたいと言い出す事も出てきた。嘘をついたり、ふてくされたり、周りのみんなをとても悲しませる事も多くあったが、なんだかんだ言っても辛い事から逃げたいだけで結局踊る事はとても好きそうで、フロアの上ではしっかりと華を咲かせて結果を導いてくれた。
新体操を大学で続けると決めるには少し迷っていたが残り4年頑張る事を決意して入学した。入学と共に新体操のルールが技重視と変更し、もともと手具操作が得意では無かった本人にとっては非常に苦労し、自分が求めている結果や演技がなかなか思い通りにはいかない試合が続いた。
大学生活も後半に差し掛かり、最後2年をハイパワーで頑張りたいと思っていた時に、コロナウィルスが世界を震撼させ、様々な制限のある生活を強いられ、あっという間に大学3年生は終わりラスト1年は、更に苦境な状況で迎える試合が多く、万全を期して迎える試合がほとんど無かった。
残された試合はインカレとJAPANだけという状況になっても身体は故障を抱えていた。誰が引き止めても出場する意向を崩さず試合に向かった本人に、身体からのレッドカードが出されたかのように試合二日前に更なる故障が起きて無念の棄権。これは試練か、天罰か、大殺界か、、、というぐらいの状況に陥った。残されたJAPANまで2ヶ月半。とにかく過酷なリハビリとタイムリミットに焦るあまり諦め荒れ狂う時期もあったが、とにかく信じて進むしかなかった。「再発のリスクは抱えています。」という医師からの通告。頑張ろうとすれば突き付けられる現実。試合を迎える最後の最終まで、出場できるのか、跳べるのか、最後までもつか、何と言っても本人の「お天気」が持つか、、という状態でした。
五十嵐史上最強のプログラムで最後のJAPANを迎え勝負したい。と怪我をする前に語っていた本人であったが、残念ながら「最強」までもっていけなかったが、出場に至るまで本当に良く頑張り耐えた。
中2から出続けた9回目のJAPAN。
本人が望んでいた結果や勝負は出来なかったけれど、本人と私が見せたいものは披露できた。後世の選手達の記憶に一つでも残せるものがあれば幸せです。
波瀾万丈のJAPANが終わり二週間もしてから挨拶に訪れた本人から語られたのは、感謝では無くやり切れなさであった。
満身創痍で試合に出たかった事や、叶わなかった目標の無念を口にしていたが、、、 試合は終わってみて他に思う事は?と聞くと、
1.リハビリの体幹トレーニングをやらなくてすむ。
2.嫌いなバレエも、もうやらなくてすむ。
3.手具の基本練習は嫌い。筋トレはもっと嫌い。
4.私は新体操の「踊る」ことだけが好きでした。
と、堂々とはっきり答えた本人でした。笑
9回もJAPANに出場して、それなりに上位にいた選手のこれが本音か。。( ̄∇ ̄)
・・・あなたがもっと真面目だったら結果も違っていたわね。。と笑いました。
本当に一筋縄ではいかなかった選手であったが、他にはない色濃く個性をだして華やかに、どんな作品もドラマティックに踊りこなしてくれた事に感謝したい。
もう一度観たいなぁと思う作品があるって幸せですね。(´∀`*)
本当にお疲れ様でした。
どんな場所からどんな時も応援してくれたたくさんの方々、懸命に治療とリハビリに取り組んで頂いたAR-exスタッフ「team五十嵐」の先生方、お世話になった中学、高校、そして大学の先生方に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。